昭和57年6月4日 朝の御理解 入力者松本正宏
御理解第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
今朝方から私はこんな御夢を頂いた。ある人があるお道の先生という感じの人が、半身半義というよりも、何か合楽を初めから批判的な、感じで私に質問をしてくるのです。その質問をどういう質問をしてくるかというと、合楽では人間が人間らくし生きる手立てというものを解かれるそうですが、どういう事なのでしょうかという質問であった。私はちょっと躊躇しておりました。どんなふうに答えたらこの人が分かるだろうかと。本当に合楽の信心が分かりたいと、思うて質問をしてくる人は本当に私の信心をそのまま話しても分かるのですけれども初めから批判的、間違うておったら、こうとって抑えようという感じでね、質問をされた時に私は、躊躇した。合楽で言われる、人間が人間らしく生きるという事はどういう事なのですかと。そしたらね、誰かがそれに返事をしてくれ、まあ神様だと思うのですけどね、合楽の信心はね次元が変わらねばという事を頂いたのです。ね。私はそれを頂いてね、今朝から本当にそうだなあと、それで私はそれで、目が覚めたのですけれども、それからその事を頂いてこういう風に説明すればこの人も本当に分かってくれるだろうなあと思うて昨日のご理解を思うたのです。
ね。神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられると教祖は教えておられるがその、お道の信心は神の大恩が分かるということなんだと。それは金光様のご信心を頂けば、天地の大恩を解かれますから、水一滴でも込め一粒でもいやこの、空気だけでも神様の御恩恵のものでご恩恵を外れては生きていけないのだと、まあ解くわけですけれども、また事実そうなのですけれども、昨日のご理解を頂いておりますと、私は初めてああいう表現で頂いたと思うのですけれども、ね、神の大恩を知ればという事は、昨日の朝私が頂いた、梅にも春という事を頂いてね、なるほど、梅の花がいうなら、寒い冬をいうならば通り超えて、ね、いうなら暖かい春のまあ、さきがけのように咲く花ですけれども、梅の花が咲きゃやはりウグイスも来てとまるだろう。だから辛抱し抜いて、いうなら、梅にも春の時期にあったという事だけがありがたいのではなくて、春がくれば咲かせる、咲く、その元であるところの夏もあれば冬もある、秋もあるというその、試練なら試練を受けて初めて春のいわゆる梅にも春のおかげが頂かれるのだから、ね。梅も春のおかげを頂いて、ただやれ嬉やと言うておったのだけではまたすぐ熱い夏が来るというのが昨日の御理解でしたね。
だから夏だって冬だって本当にあり難いんだと分かるためには夏を楽しませてもらう。冬を喜ばせてもらう為にスキーの技術を覚えよ、泳ぎを覚える。それこそ少しでも熱いほうが泳ぎに行くとには、快適であるし、寒くて雪が沢山降れば降るほど、心踊る思いがするのがスキーの稽古をしておるスキーヤーの人達の心の状態であろうように、ただそこを、ただ、ああ寒い熱いと過ごしただけでは駄目なんだと。神の大恩が分かるという事は、梅にも春を会わせてもらうことの喜びの前に、そういう夏の冬のあり難さとか、神様の本当に御骨おりというもの、いわゆる、大恩恵である。神の大恩という事はここが分からなければならない。ここが分かればね、もう間違いなく、家繁盛子孫繁盛、それこそ、昨日の御理解じゃないですけれども、三代続いたら神の機感に適う氏子というような働きにもおかげにもなってくるのだと。
ね。昨日は梅の会でございました。皆さんの色々発表を聞かせてもらいました。司会を佐田秀樹先生がしておりました。そして今度御本部に参りまして三日間研修を受けてきて、まあ班別懇談のような時に本当にもう、合楽のいうなら、こう、悪口が沢山とにかく、合楽評判が悪いことだというわけですけれども、そしたらね、中にここに、ほら、(?)という姉妹が修行しておったでしょうが。ね。お姉さんと弟と。悪そ坊主でした。ね。そのお父さんが一緒の班だったそうです。そしてみんなの悪口を聞いた時に、佐田先生が言い分け的な、言い訳というか、実は合楽はこうこうですよと言うてお話をしたのですけれども、合点がいかない模様でしたけれども、その、(?)君の、お父さんがね、私の娘と息子が合楽に修行に行っておりました、私はあの人たちが帰ってきて、あの人たちのいうならば信心ぶりというものをジットみておりますが、とてもとても合楽の修行というものは容易なら無いものである事を私の娘もそこから感じました。あなた方言われておるような合楽ではないですよというてその、説明をされたそうです。私はそれを聞いて思いました。ね。合楽で容易ならない修行をさせて頂いておる証拠に、かえってきた息子のいうならば、あり方が修行に行く前と帰ってからの態度が違う内容が違う。信心が違うとお父さんが言われ、説明されたという事を聞いて、私は本当に感心しました。ね。修行を身に付けたらやはり、そこにはやっぱり変わっておる。合楽で頂いておる信心をいわゆる、自分のお経会で表しておる。
ね。それもなら現しておる具合というものがどういう事をいうならば現しておるだろうかとこれは私の想像ですけれども、結局御理念に基づくところの物の見方考え方であろうとこう思うのです。ね。いうならば今日私がお夢の中で次元が違った世界でいうならものを見たり聞いたりしておるという事なのです。これは用意ならない修行を受けてこなければいうならば、考え方やら態度の上やらには現されない。ね。皆さんどうでしょうか。合楽通うてくる皆さんは批判的ではなくておかげを頂きたいというてお参りをしてくるのですから、私の話を一応はそうですかというて聞くのです。ところが聞いただけ分かっただけではいかんのです。本当に自分自身が次元が違ってこなければ住まう世界が。ね。そこにはです、今まで自分の都合のいいことだけはあり難いと思うておったけれども、いうなら昨日のご理解を借りると、ならなるほど夏をありがたく頂く為には冬をありがたく頂く為には、ね、いうならスキーの稽古もしなければならない、泳ぎの稽古もしなければならないと日々信心の稽古に御理念に基づいて信心の稽古をするところから、実験するところから実証が生まれてくる。実証が生まれてくるところから、自分の物の見方考え方、いわゆる次元の違った世界から物事を見ることのできれる生き方が出切るのである。ね。だからなら、合楽で説かれるいうならば、それこそ、かつて宗教者が言うて来たことのない、いうなら人間が人間らしゅう生きていけれる手立て。大体、水をかぶったり火の行水の行なんかという事は本当じゃないと、心行信行家業の行といったようなふうに説かれると同時に人間が人間らしく生きる生き方、今まではお粗末だ御無礼だと思っておった事にお礼が言えれるというようなことが分かってくるところにです、分かってくるということは次元が違ってくるから分かってくるのです。私は今日の御夢を頂いてですね、ははあ、なるほど私のいう事が本当にそうだと分かり実験実証出来る為にはね、まず、天地の大恩が分からなければならないという事です。天地の大恩という事は、ね、聞けばすぐ分かる水でも空気でもお米一粒だってご恩恵によるものだという事はすぐ分かるけれども、昨日神の大恩が分かるという事はそういう事だけではない。
ね。梅にも春といったようなときだけがあり難いのではなくて、梅にも春の花が咲く営みとか働きという事が起こって来る時には夏もなからなければならない、冬も無からなければならない。その、冬のあり難さ、夏のあり難さ、夏冬に例えば感謝のできれるような心が分かった時に神の大恩が分かったときだと。そういう神の大恩が分かっていくいうなら手立てをね、御理念によって稽古させて頂いておるいうならば合楽的前向きの信心が、出来て初めて人間が人間らしゅう生きる生き方というものが分かってくる。次元が違う。例えば、未成年のものがお酒を飲んだりタバコを飲んだりしたら怒られますでしょう。ところが青年になりますと、誰が酒を飲んでもタバコを飲んでも言いてがないように、一段信心を高めて、次元が高められた信心の境地というものはです、神様がとがめなさる働きというものはなくなってくると。ね。だから問題は話を聞いてはあ合楽は人間が人間らしく生きる生き方といったようなところだけに飛びつくのではなくて、まず、天地の大恩が分かって、次元の違った世界に自分が住まわなければ、ね、合楽で言われるいうならば、本当の事は分からないという事です。それがまして批判的であったりしたらです、私とても説明のしようがないです。ね。けれどもね、なら、合楽の信心を頂きたいというて、いうならば傾倒してくる人にはですいわば難しい御理解でもいうならば私が、お話をしてあげる事が出来る。昨日、伊万里支部の方で熱心な信心をしておられた青年の方が、昨日から本式に合楽で修行をしたいというて、昨日から修行生の仲間に入られました。そして私はとにかく、ここで修行をさせてもらわにゃならん、昨日の御理解、天地の大恩を分かることに一生懸命になれと私が言う。その事だけ。もうその事だけでいい。天地の大恩が分かればです、いうなら、次のあり方さも分かったらです、自分も助かり人も助かるのです。それだけではない、それこそ子孫繁盛家繁盛、の道が開けてくるのだと。だからそこだけに焦点を置いて、修行せよと言うてまあ申しましたことですけれども、まあ今日のご理解にはあたらないような感じですけれども、一心を立てるという事はどこに一心をたてるかというと、いうならその、昨日の修行生の入ってきた人にいうように、もう他にはいらん。もうここに一心をたてろと。天地の大恩を分からせてもらうという事に一心をたてろと。そしてそこに、なら頼むというたら、もうそこに定まってくるに違いない。そこから神様が十全の働きを示し現してくださるのであり、また十全のおかげを受けられるということにもなるのです。皆さんはまあいうならば合楽に傾倒し、合楽でおかげを頂きたいと思うておられるから私の話をはあそうかなと思うて分かられるでしょう。ところがこれを反発するつもりで来た人は、私のいう事に一つ一つ反発しようと思うてくるのですから、私も説明のしようがないです。言うたって反発してくるからもう言うごとなかごとなってくるです。だからそうじゃなくてまずは、神の大恩を分からせて頂こうと、なら神の大恩を分からせて頂く手立てでもです、考えてこうやってくるならば、段々難しいこともいうなら言うてあげることも教えてあげるという事にもなりますね。だから皆さん。それこそ(?)君じゃないですけれども、ここで一二年、どのくらいだったでしょうかね。修行を致しました。そしていうならば御理念の何たるかを分からせてもろうて、今までのあり方とは親がみておって、ジッとみておって、それこそ容易ならない変わり方をしておると言われるくらいに変わって合楽の御理念を頂き、実験実証に移って、いわゆる次元の違った世界から、物事が見える、ね行えるようなおかげを頂く時にです、ね、教祖様が仰る「信心するものは肉眼を置いて心眼を開け」と仰るいわゆる心眼の世界に住むことが出来るですね。
どうぞ